コロナとの戦い

書きたくなった。ちょっとヤバいかもしれないけど,今の大学生のリアルな日常(吉田ゼミ編)。

かなり長い( ゴミかも…でもマジ…)。


10日,月曜日お昼すぎ,突然,学内放送が鳴った。

ゴールデンウイークの影響か,広島では新型コロナの新規感染者数が急増しており,それに伴う措置として,午後からの授業はすべて休講にするので学生は全員帰れとのこと。
また,翌日から来月1日まで3週間あまりを学生登校禁止期間とし,授業はすべて遠隔授業に移行するらしい。

うちの学科では月曜の午後に3・4年のゼミの授業がある。
連休前にゼミの新3年生が決定したので,この日の午後は合同ゼミを行って,4年生が卒論の研究構想を3年生に向けて発表する予定にしていたけど,それもやむなく中止。

またかぁ…。
昨年もコロナで一度も合同ゼミを行うことはできなかった。下の写真は一昨年のもの。

ゼミでは「縦」のつながりがとても大事なのに,それを作ろうとしてもいつも邪魔される。本当にコロナ…恨めしい。

でも,うすうすこんなことになる気もしていたので,日曜にGoogle Meetでゼミ生全員が参加する会議室を作っていたから,「じゃあ,今日はオンラインミーティングのテストでもしようか」ということになった。
でも,Meetの会議室を開いて4年生がちらほら入り始めても,3年生は遠慮して入って来ない…。

その時,4年生からLINEで「先生,これから大学に来ちゃダメですか?」

「は? そりゃ,当然ダメでしょうよ~! (>o<;)」

でも,就活先に出さなきゃならない成績証明書を今日中に取っとかなきゃなんていう理由も一応あるらしい。そこで学生に向けた大学からの指示メールをよく見たら,「今日は午後休講」,「明日から6/1までは学生登校禁止」とは書いてあるけど,今日が登校禁止とは…うん書いていないね…。

「じゃあ仕方ない,ちょっとだけおいで。」

また,別の学生からLINE…。明日から登校禁止なので,卒論の関係資料を完成させておきたいらしい。まだ学内にいるので,帰る前にどうしても実験室に立ち寄りたいとのこと。

「じゃあ,少しだけ…。」

その後また別の学生がやってきた。他の学生たちが帰る中,「隠れてました~」だって… (^^;)。


うちの大学では,コロナ感染者が一人でも出ると,その場で休講が決まって,学生たちを帰して,感染者から濃厚接触者を聞いて当該学生に連絡し,保健所の指導を受けて学内の消毒作業を行うのです。

学生たちが「やったぁ~! 授業なくなったわ~!」と大喜びしながら帰る中,うちのゼミ生たちはなぜか大学にやってくる。

「アストラムラインの駅,すごい学生ですよ。みんな帰ってるんですね~」なんて,のんきに電話しながら,まるで川の流れを遡る小魚のようにやってくるうちの学生たち…。

川を遡上する魚たちって,なぜ川を上るんでしょうね。川上に何があるのか見たこともないくせに…。上った先にあるのは「楽園」ではなくて,「危険」かもしれないのに…。

気がつけば,実験室にはオンラインで参加している学生と同じくらい学生が集まってしまった。大学から帰れと言われているのに…これはかなりいけませんね…危険。

そのうち,「俺も行きます! 20分で着きます!」なんて,オンライン会議室から消える学生がいたり…この付和雷同ぶり…この人たち,絶対,魚レベルだわ!

そうやって,もう誰もいないキャンパスに4年生たちが集まって,いつの間にかいつものようにゼミが始まった。

50キロ先から駆けつけるなんて言っている学生はさすがに全員・全力で止めて,実験室にいる学生がLINEや電話やメールで自宅にいる学生たちとやりとりしながら,資料を集めてまとめている。


なんか昨年もそうだったなぁ…って思い出しましたよ。

コロナで対面授業が全面停止になっている中,「土日なら交通機関も空いてるし,来てもよくないですかねぇ?」なんて言って,土日や夏休み中にこっそり集まって,実験の準備をしていたなぁ。

これ(魚レベル)は,うちのゼミのDNAかもしれん…。昨年の4年生の姿があなたたちにダブって見えるようになってきたよ…間違いないね。

でも,こんな時間は,私にとっては,とても大切なものでした。

コロナという圧倒的な負の力に支配されている今の世の中で,大学の小さな心理学研究室としてのアイデンティティをかけたレジスタンス。不自由でなかなかうまくいかないけど,本来私たちがやるべきことをやりたい。希望をなくして努力をしなくなったら,たぶんそれが負けを意味すると思うから,とにかく流れに逆らって,あがいて,もがいて,泳ぐ。

とりあえず,3年生たちに見せられるような資料もできたし,もう暗くなってきているので,「そろそろ帰らなきゃよ」,「でも,今帰ってたら,絶対守衛さんに怒られるよね」,「あぁ絶対間違いないよ」なんて言っていたとき,学生たちがロッカーに貼ってるコラージュ写真に昨年の4年生を見つけて,「あ,先輩たちの写真だ~」,「この先輩,なんて名前だったっけ」,「〇〇先輩よ」なんて言いはじめた。

昨年は,3年生の歓迎コンパも,4年生の追いコンも,ゼミ名物のクリスマス会も,何ひとつゼミのイベントはできなかった。それどころか,合同ゼミも一度も開けなかった。なのに,みんな先輩の名前を覚えてるんだね。
うちのゼミは実験をやるゼミなので,昨年,先輩の実験に被験者として参加したときに覚えたそうな。
「コロナ感染が怖いから,実験室では教示など必要なこと以外はしゃべらないように」と言っていたのに,結構おしゃべりしてたのね…キミたち。

卒業した学生たちはもうここにはいないのに,昨年の元気な学生たちが,この子たちの心の中にも宿っているような気がして,うれしかった。


「『命』って何でできていると思う?」

たまに学生にいじわるな質問をすることがある。細胞の活動でできているのかもしれない…。あるいは,魂が存在するのかもしれない…。正解なんてないですよね。

「命って『時間』でできているんじゃないかな?」…私なりの考え。

私自身もちょっとだけやっているけど,障害をもつ子どもたちや難病患者の人たちのためのソフトウェア(プログラム)を開発している仲間たちがいて,それを見て思ったのですよ。

「ソフトウェアって何でできている?」

普通は,どんなモノにも,必ず原材料がある。
でも,ソフトウェアは「情報」であって,本質的には形のないもの。質量さえ存在しない。

じゃぁ,ソフトウェアの材料って何かというと,それは人間がもっている「時間」だ。時間という抽象的な存在を,人は形にすることができる。その形は,物理的には存在していないのだけれど,人間にはそれが見えるんだ。絵が好きな人は,絵を描いて,人に見せるところを想像すればいい。

人生の一部である時間を原材料にして,人の役に立つものが作れるって,なにか素敵だよね…。だって,そうやって作ったものに価値があるってことは,その人の人生に価値があるってことだからね…なんて,格好つけて学生に話したりする。

私たちが研究対象としている「心」もまた,ソフトウェアと同じく形をもたない存在であって,限られた時間の上に成立する「命」によって支えられている。

そうか,わかった。キミたちは,今,この「時間」を求めて,ここに集まってきてるんだね。

「時間の価値がわかる人には,命の価値もわかるはず」…と思う。

コロナ禍は,私たちのゼミから地域のお年寄りや子どもたちとのつながりを奪ったけど,ちょっとしたリスクを負いながらも「今という時間を大切にしている」学生たちの姿を見て,これは人間が人間としての本質を廻って,本来の姿を取り戻すための復権をかけた戦いなのかもしれないと思うようになった。

今の彼らに残された時間はあと10か月,このような時代だからこそ,その時間を大切にしてやりたいと思う。


コロナ禍の中,若者の自殺が増えているという。

「死んではダメ!」と強く思う。なぜならば,せっかくもっている時間がなくなってしまうから。

時間があるなら,流されるのでなく,流れを頬に感じながら,川上を探して泳いでみてはどうでしょうね。

今の社会の水は,あまりにも濁り過ぎてしまった。

だから,大切なものが見えないだけかもしれません。

川上に向かえば,水も澄んでくるでしょう。

その時,人にしか見えない,大切なものが見えてくると思う。